本日はようこそお忙しい中、報恩講法要にお参りくださいました。毎年、途絶えることなくご先祖の皆様が大切にされてきた法要を今年も皆様とご一緒に勤めさせていただくことをとても有難く思っております。
報恩講のは親鸞聖人のご遺徳を偲び、私が教えに出遇えた喜びを感謝し、営まれる法要です。 この私に南無阿弥陀仏のお念仏が時代や場所を越え今、この口に南無阿弥陀仏とお念仏申す身に育てられていることに思いを馳せることでもありましょう。
報恩講の「恩」はサンスクリット語で「カタンニュ」といい「私になされたこと」を意味します。「報」は報道や報告という言葉のように「知らせる」つまり「報恩」は「なされたことを知る」という意味があります。
今「恩」という言葉も「ご恩ですね」「ご恩に感謝します」とあまり聞かなくなりました。反対に耳にする言葉は「恩着せがましい」「恩を売るのか」。そういう意味では聞くのですが、素直に「ご恩ですね」の言葉は最近聞かなくなって久しいです。
仏教は「因果の通り」を説きます。原因があって結果がある。話は大きくなりますが、修行(因)をしたらさとり(果)を獲る。私たちに当てはめると勉強をしたら(因)良い大学にに入れる(果)。でもよくよく考えてみるとそんなに上手くはいきません。こんなに努力したのにと愚痴をこぼしたり、結果が結びつかない事なんてしょっちゅうありませんか。親鸞聖人は今あること(果)からその(因縁)を見ていかれました。
つまり、私が今南無阿弥陀仏のお念仏を称えているということは、もうすでに阿弥陀さまが私のいのちに満ち満ちててくださっている。身内に寝たきりの方や私が体調不良だったらお参りできません。本日お参りできる環境が用意されていた。厳しいご縁をはじめ、今までのご縁の一つ一つが尊いことであったと振り返ったとき何気ない、忘れ去られてしまうことでさえも、それがなかったら阿弥陀さまと出遇うことはなかったと思えたとき、「恩」(なされたことを知る)と言う意味が深く感じることができるのではないでしょうか。
浄土真宗のみ教えを大切にされてきた人々は親鸞聖人のご命日を「報恩講」として脈々と受け継ぎ今日まで大切にされてきました。南無阿弥陀仏のみ教えを私たちにお示しくださった親鸞聖人に感謝し、阿弥陀さまの救いをあらためて心に深く味あわせていただく、一年で最も大切なご法要である報恩講にようこそお参りいただきました。秋も深まりだんだんと朝晩と寒さ厳しくなる折、どうぞご自愛くださいましてお過ごし下さい。 合掌
九月のお彼岸は、夏から秋へと季節が移り変わる大切な時期です。その彼岸とは、阿弥陀さまがいらっしゃる「極楽浄土」を指します。
『仏説阿弥陀経』というお経に、極楽浄土は私たちの世界から「十万億仏土」離れた世界にあると説かれています。これは、無数の仏さまの世界を超えた遥か彼方に極楽浄土が存在するということを意味しています。
『仏説阿弥陀経』の前半に
「従是西方。過十万億仏土。有世界。名曰極楽。其土有仏。号阿弥陀。今現在説法。舍利弗。彼土何故。名為極楽。其国衆生。無有衆苦。但受諸楽。故名極楽」
(是より西方十万億の仏土を過ぎて世界有り、名けて極楽と曰う。其の土に仏有す、阿弥陀と号す、いま現に在して説法したまう。舎利弗、彼の土を何が故ぞ名けて極楽と為す。其の国の衆生は衆の苦有ること無く但諸の楽のみを受く、故に極楽と名く)
ここでの短い経文の中に「極楽」という言葉が3回も登場します。この「極楽」という言葉は何を想像するでしょうか。気持ちよい温泉に入って「あー極楽、極楽」という印象を持たれている方もいらっしゃるでしょう。実はこの「極楽」という言葉は「楽が極まる」と言う意味ですが、苦しみがない世界が「極楽」と言います。
私たちの人生での苦しみは何でしょうか。もちろん人それぞれではありましょうが、おそらく「死んでいく」と言うことでしょうか。その苦しみがないというのです。つまり仏さまになりお浄土に生まれると言うことは決してもう何度も繰り返してきた「死」の経験が無いと言うことなのです。そしてもう一つ。私が死んでいくと同時に愛しい者とも別れていかなければならない「愛別離苦」の苦しみもないと言うことなんです。つまり阿弥陀さまのお心をいただいたものはまた出会うことの出来るいのちと聞かせていただきます。阿弥陀様はお浄土を建立されて苦しみを決して受けることがない「極楽浄土」を建立して下さった。ただ、親鸞聖人はこの極楽を一般には「寓たらで快楽を想像してしまう」と本来の意味と離れた感覚で受け止められやすいのでこの「極楽」と言う言葉はあまり使われていません。
どちらにせよ、仏さまが極楽浄土を説かれるとき、どうやったら仏法に背を向けている者に、さとりの世界としての浄土に心を向けてくれるだろうか、どうすればそのお浄土に生まれたいと思うだろうかということを大事に荘厳されている世界なのです。この極楽と言う言葉のように「阿弥陀経」にはさとりの風景がたくさん込められています。それは仏さまに背を向けながら生きてきた私を、お浄土に生まれさせたいと願う心から荘厳されたさとりの世界です。 合掌
私たち浄土真宗の仏さまを阿弥陀如来とか阿弥陀さまと申し上げます。
阿弥陀さまはお浄土から私のいのちに「南無阿弥陀仏」と声の仏さま、名(前)の仏さまと耳に聞こえ、称えやすい仏さまとなられて私のいのちに今、「我にまかせよ、必ずすくう。あなたをお浄土に生まれさせる」名号 南無阿弥陀仏とはたらき続けております。
時折、ご門徒とお話しする中で仏さまの話(法話)はわかったようなわからないようなと言ったり、また心がなかなか穏やかになれませんと言う方がおられます。
ここだけの話、実は私も若い頃そうでした。法話を聞いてもわかるようなわからないような、そしてその時は有難いなと思っても、しばらくすると愚痴や妬みの心が忘れた頃に吹き出してくる。これはどんなものかなと反省するばかりでした。本当に仏さまなんておるのかという厳しい現実を目の当たりにする出来事ありました。
ある勉強会で先生が「私のはからいやものさし、自分中心の心で仏さまの話を聞いても全くわかりません。だって仏さまの話は私のものさしやはからいを超えた出世間の話ですから」と聞かせてもらいました。確かに私の経験や感情を仏さまに当てはめても私の価値観に合うことしか理解することができません。なので、仏さまの話をそのまま聞かせてもらうと言うこと、それは仏さまのすくいには私の価値観は何も用事が無いと言うことです。
私の価値観やものさしをあてて聞いてしまう話の一つに「お浄土」があります。その「お浄土」は昔からよく帰る家や、いのちの故郷に喩えられます。また、旅行が楽しいのは「帰る我が家があるからこそで、なければ放浪になってしまう」とも言われます。その通りだなと思いながらも、ずいぶん前になりますが帰る家があっても心配になってしまう経験をしたことを思い出しました。それは車で行った旅先で家と車の鍵を無くしてしまったのです。それは冷や汗をかいて、立ち寄った場所一カ所一カ所探したところ昼に立ち寄ったレストランに鍵が届けられており、事なきを得たのですが、なんとも言えない不安な気持ちで一杯でした。私のものさしで考えていくら帰る家があっても今、私自身が安心できなければ不安の中で生きていくのはしんどいなとも思ったことでした。
では私のいのちが生まれ往く浄土はいのち終わって初めて安心できる教えではありません。今、不安で心配の中、そして私の価値観や自分中心のものさしで生きている私に言葉の仏さまとなって南無阿弥陀仏「我にまかせよ、必ずすくう。あなたをお浄土に生まれさせる」といのちに飛び込み、そして満ち満ちて下さっています。この人生は阿弥陀さまがご一緒の人生だとお教え下さいます。その南無阿弥陀仏のはたらきに安心を頂いて今を生きています。
先にお浄土に参られた皆さまを偲ばせていただきながら、お浄土に生まれてこいよというご先祖の声なき声を仏さまの教えを通じて聞かせてもらいましょう。 合 掌
「永代経」とは、そういう名前のお経があるのでなく、大きく三つの意味があります。「故人のご命日に、お寺で永代にお経が勤められる」「故人の家族が、ご命日を縁として永代に仏さまのみ教えをいただく」「お経が勤まり、仏さまのみ教えを広めるお寺が永代に存続される」の三つです。「永代経」はまた「永代読経」の略で、子や孫たち、次の世代に人々に永代に渡ってお経が読み続けられ仏さまの教え(仏法)が伝わっていくことを願うものです。「永代祠堂経」とも喚ばれる地域もあります。
善行寺ではほとんどの方が、亡くなった方を縁として永代経のご縁にあう方が多いことです。永代経をお上げすることは次の世代の人々のために、お寺やみ教え(仏法)を護ると言う大きな意味があります。それは同時に多くの人々に仏さまの教えが伝えられていくという重要な役割にもなります。
浄土真宗の永代経は、テレビやネットで散見される一般的に言う永代供養という考え方、例えば代表的なものは「お寺が遺族に代わり永代に供養してくれるから、お参りしなくてもいい」というよりは、もっと先人の皆様が伝えてくださった深い意味が込められています。亡き方のためにと永代経をお上げする心はそのままに「亡き方のおかげさま」で多くの人々に仏法を伝える役割へとつながっているのです。
・永代経は、私が仏法聴聞し仏縁にあう大切なご縁です
・永代経は、教え(仏法)とお寺を後世に伝えていくご縁です
・皆さまがお元気なうちは、どうぞお参りください
・永代経は「お寺にまかせてなにもしなくていい」という考えではありません
合 掌
皆様ようこそ善行寺 春季彼岸会にお参りいただきました。
数十年前に京都の本山本願寺にて児童念仏奉仕団といって多くの子どもたちが本願寺にお参りになられました。その時に、当時の第二十四代即如門主が子どもたちに声をかけて下さいました。それは「今日はようこそ本願寺にお参り下さいました。さて、皆さんにとって人生で一番大切なものは何ですか?」 人生で一番大切なものは何ですか?と尋ねられたのです。続いて、中にはお母さんだと思っている人もいますね、お父さんだと思っている人もいますね。そして友達だと思っている人もいますね。あるいはお金だと思っている人もいますね。ところがそれらのものは全部なくなっていったり、別れていかなければなりません。皆さん、たった一度きりの人生です。本当に大切なものをこの人生の中で見つけるのです。これは人生をかけての宿題です。と声をかけて下さったそうです。もし皆さま方が少年時代にご門主様からそのような宿題を出されたとするならば、今までの人生の歩みの中で、その宿題の解決について、少しでも一歩でも、歩みを進めてこれたでしょうか。いかがでしょうか。
私たちは、「南無阿弥陀仏」(阿弥陀さま)という仏さまと出遇わせていただきました。このお念仏は阿弥陀さまのお名前です。そして親鸞聖人が教えて下さったことは、南無阿弥陀仏は、仏さまからの喚び声です。我が身に宿って下さった阿弥陀さまそのもでありまして、阿弥陀さまがこの私の口を使って「ここにいるよ、ここにいるよ安心していいよ、あなたのいのちは引き受けましたよ」と、喚び声となって我が耳に響いて下さっている。南無阿弥陀仏は火に焼かれることもありません。水に流されていくこともありません。この身に宿ったからにはもう二度と私と離れることがない大切な存在として私のいのちを根底から支えて下さるそういうはたらきをになって下さる仏さまであります。この仏さまを親鸞聖人は「帰命無量壽如来 南無不可思議光如来」と私はこの仏さまを頼りに生きていきます。私はこの仏さまをよりどころに生きていきますと正信偈の冒頭に称えられております。このお念仏は皆さま方の中にすでに至り届いて下さっております。今日もお念仏の中に過ごさせて頂きましょう。ただただ、大切な宝物を私たちは頂いております。 合掌
本日はようこそお忙しい中、報恩講法要にお参りくださいました。毎年、途絶えることなくご先祖の皆様が大切にされてきた法要を今年も皆様とご一緒に勤めさせていただくことをとても有難く思っております。
目が見えず、口も聞けず、耳も聞こえない三重苦の中を生き抜かれたヘレン・ケラーさん(1880年- 1968年・アメリカ)はあるインタビューの中で、「もし神様が、目、耳、口のいずれかを正常にしてあげると言われたらどれを望みますか?」と聞かれました。私自身きっと周りのものが見えること、「目」が一番望むのではないかと思ったら答えは「耳」でした。その理由は「心に光が入るのは耳だからです」と答えたと言う記事を見たことがあります。
このお話を聞いたとき涅槃経というお経を思い起こされました。この涅槃経は親鸞聖人が大切にされたお経でもあります。その中に「見に二種あり。一つには眼見(げんけん)、二つには聞見(もんけん)なり」とあります。これは仏さまと出遇って行くには二つある。見て出遇うこと、そして聞いて出遇うとあります。特に浄土真宗は「聞見」を大事にいたします。「眼見」も内容を聞くと大変ありがたいのですが、私たち凡夫(煩悩に苦悩している私のこと)には仏さまを目で見て出遇うことはかないません。しかしお姿を直接見なくても、私たち浄土真宗のみ教えは阿弥陀さまのお話を聞かせいただく中に仏さまと出遇っていく世界が開かれていくのです。
親鸞聖人はまさに「聞見」を大切にされていかれました。その生涯を通して阿弥陀さまの「われにまかせよ そのまま救う」との喚び声を聞き、南無阿弥陀仏の名号による救いを真実のみ教えとしてお示しくださり、親鸞聖人は阿弥陀さまと出遇い、私たちもそのみ教えに出遇わせていただきました。多くの方がこの真実のみ教えを喜び先人たちが親鸞聖人のご命日を「報恩講」として脈々と受け継いで700年の歴史の中で、今日まで大切にされてきました。南無阿弥陀仏のみ教えを私たちにお示しくださった親鸞聖人に感謝し、阿弥陀さまの救いをあらためて心に深く味あわせていただく、一年で最も大切なご法要である報恩講にようこそお参りいただきました。合掌
ようこそ秋の彼岸会にお参り下さいました。朝夕になると暑さもだいぶ和らぎ、太陽が真西に沈むこの時季、阿弥陀さまのお浄土へと往生された大切な方を偲びながら、阿弥陀さまの願いを聞かせて頂きましょう。私たちの住む世界「此岸」から、阿弥陀さまの極楽浄土「彼岸」へ到る道を「南無阿弥陀仏」のお念仏の中に尋ねていくことが大切です。
「お浄土」を阿弥陀さまのさとりの世界、そして「此岸」はまさに苦しみ・悩み多い、迷いの世界。煩悩のあふれた世界。
皆様どうでしょうか。この私の住んでいる世界を迷い、煩悩のあふれた世界だと思いながら生活しているでしょうか。ましてや、仏様になろうと思って生活しているでしょうか。仏様になるというのは自覚覚他・覚行窮満といって、自らさとり(自覚)、他をさとらせ(覚他)、すべて満足している者(覚行窮満)。ほど遠い私がいます。
先日、夕方のスーパーに買い物でレジに並んでいたら、前のお客さんが会計で戸惑っていました。店員さんも困っている様子です。そのやりとりを見ながら私の心は、「隣のレジに並んでればよかった」とイライラするわけです。ましてや私の後ろに並んでいる多くの方には心行き届きません。私は自分の都合でしか物事を見ることが出来ません。その都合が良ければ「上手くいった」、都合が悪ければ「上手くいかなかった」と感情をあらわにします。本当に恥ずかしいですね。その都合が叶わぬと、心閉ざされて一人苦しめられる私です。仏様とはほど遠い私です。そう考えると浄土と此岸は本当に真逆ですね。でも、そういう私だと知らされる世界が浄土のはたらきです。浄土が「ある・ない」ではなく、私にとってそのように思える私が「いるのか・いないのか」大切な事を教えて下さるはたらきがお浄土ですね。
今、「南無阿弥陀仏」とお念仏が聞こえてます(ご自分で称えてみて下さい)。これはお浄土から、私の身に至り届いた阿弥陀さまのすくいの声なのです。「我に任せよ、必ずすくう」お釈迦様に勧められそして阿弥陀さまのお喚び声をいただきながらお念仏申し歩む人生が、親鸞聖人が私にお勧め下さった彼岸へ至る道であります。合掌
先にお浄土に参られた有縁の皆様をご縁として私が阿弥陀様のすくい(浄土真宗のみ教え)に出遇わせて頂く盂蘭盆会にようこそお参りくださいました。浄土真宗の仏様は阿弥陀様です。阿弥陀という言葉は「限りないいのちと光の仏様」というはたらきがあります。そのはたらきは私の目で見ることができません。しかし目に見えないものほど大切な事はありませんか。例えば、わたしのいのちを支えてくれる空気や重力。それ以外にもたくさんの目に見えないはたらきによって支えられています。
そのはたらきを見ることはできませんが、今、私の声となって耳に聞こえる「南無(なも)阿(あ)弥(み)陀(だ)仏(ぶつ)」となって、私のいのち・人生にご一緒して下さるのが阿弥陀様という仏様です。私に何をしてくださっているかというと、阿弥陀様はお慈悲の仏様です。私たちの苦しみ悩み、悲しみの涙というものをご存じくださり、私たちに安らぎをあたえようと、抱いて抱えてすくおうとはたらいてくださっている仏様です。何度も申しますが阿弥陀様のはたらきは目にみることができません。親鸞聖人は私が称えるお念仏の声は、そのまま阿弥陀様が私のいのちに喚び続けてくださっている「喚(よ)び声(こえ)」でありますと言います。どんな「喚(よ)び声(こえ)」かと言いますと「我に任せよ、必ず救う。あなたを救う仏ここにおるよ、必ず浄土に迎え取る」と名の仏・声の仏様となって私のいのちに喚び続けられています。
以前読売新聞の「編集手帳」にこんな記事が載っていました。時報電話の117番はご存じですか。「午前7時をおしらせします。ぴっぴっぴっ、ポーン」という電話です。今は、電波時計やスマートフォンがあるので利用する機会は減りましたが、30年以上前の学生時代には腕時計片手によく試験前や待ち合わせ前よく利用したものです。
この10秒ごとに時を告げるサービスは1991年から同じ音源で、その声の主は「中村啓子」さん。録音の際に一番気をつけていることは、「丁寧にはっきりと」。特に意識したのは利用者に目のご不自由な方が多いとのこと。まさに「暗闇の中で受話器をもって佇んでいる方に話しかける気持ちでした」とおっしゃっています。
また、時報の声と知っている方に温かい言葉をもらったこともあるそうです。ある年配の女性は 「夫を亡くしたさみしさから、夜中に117番をかけていた」また、人づてに「不登校だった中学生の女の子が時報で苦しみを紛らわせた」と聞いたこともあるそうです。この時報の声は決して目に見えるわけではありません。でも聞く方に間違えなく安心を与えているのです。詩人の杉山平一さん 「声」という詩があります。
夕闇は次々色を消してゆく 樹(き)のみどり ポストの赤
夕闇はけれども声を消すことはできない
阿弥陀様は私に聞こえる声の仏様「南無(なも)阿(あ)弥(み)陀(だ)仏(ぶつ)」となって、お浄土から「限りないいのちと光」となって私のいのちに、「我に任せよかならず救う、もうあなたを救う仏がここにおるよ、必ず浄土に迎え取る」と耳に聞こえる仏様、そして声に称える南無阿弥陀仏となって私のいのちに満ち満ちてくださる仏様です。先にお浄土に参られた方は、阿弥陀様という仏様を人生いのちの支えとして歩んで欲しいと、阿弥陀様と一緒に「南無阿弥陀仏」の喚び声となって私のいのちにはたらいています。
合掌
ようこそ永代経にお参り下さいました。ここ3年、皆様とご一緒に正信偈を上げることがかないませんでしたが本日からは一緒に勤めさせていただきます。ご一緒に勤めさせて頂くことは本当に有り難いことです。もちろん、新型コロナ感染症に対してまだまだ気をつけなくてはなりませんが、徐々に法要の形式も以前に戻していきたいと思います。
さて永代経は「永代読経」の省略した言葉で、子や孫たち、次の世代の多くの人々に、永代にお経が読み続けられ、阿弥陀さまのすくいのみ教え(仏法)が伝わっていくことを願うものです。善行寺の場合は新しいお寺ですので、ほとんどの方が先に浄土に参られた方を縁として、永代経のご縁にあい、お参りされていることと思います。 永代経を勤める大きな意味は、「次の世代の人々のために、お寺や仏法を大切にし護持していく」ということにもなります。それは同時に、多くの人々に仏さまの教えが伝えられていく要にもなります。 浄土真宗の永代経は、「亡き方のために」と永代経をお上げしていたつもりが、実は「亡き方のおかげさま」で、阿弥陀さまのすくいに出遇い、私が手を合わせお念仏申し、そのままが多くのお念仏を慶ぶ方々に仏法を伝えることになるのです。
私たちの浄土真宗というみ教えはお念仏申し、お浄土に参らせていただくことが最終目的ではありません。親鸞聖人はお浄土に参らせていただくことをただ慶んだのではなくて、お浄土に往生させていただいて、そして阿弥陀様とおなじような智慧と慈悲の仏さまに自らならせていただく、智慧と慈悲のものになったならば、またこの迷いの世界に還ってきて、あらゆるいのちをその苦悩をともに感じ取って、そのいのちを支えて行くような仏さまにならせていただく、そのことを親鸞聖人はお慶びになられたのです。
私たちが今、阿弥陀様に出遇い、「南無阿弥陀仏」とお念仏申し、お浄土の道を歩んでいます。実は気づいていないけれども、たくさんの先立って行かれた方々、その方々が今、私の所にお浄土からはたらき、この私のいのちの上に私を支えて下さっています。
安楽浄土にいたるひと
五濁悪世(ごじょくあくせ)にかへりては
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のごとくにて
利益衆生(りやくしゅじょう)はきはもなし
お浄土へ生まれた方は、阿弥陀さまと同じさとりを得てすべての人を救うはたらきをする。そのことをお釈迦さまがお説きくださり、親鸞聖人が私たちにお勧めていただきました。お釈迦様が苦悩している人々を救っていったように、この私のいのちをたくさんのお方が支えて下さっています。「南無阿弥陀仏」とお念仏申すことは、そのまま先だった父母や恩師の先生、たくさんの方々が支えて下さっている、私のいのちでありました。 合掌
皆様ようこそ善行寺 春季彼岸会にお参りいただきました。
ご承知の通り、新型コロナに対するマスク着用が横浜市ではこれまで屋外では原則不要、屋内では原則着用としていましたが、令和5年3日13日から、マスク着用は個人の判断が基本となりました。また政府は5月8日より、新型コロナウィルス感染症の位置づけを現在の「2類相当」(感染したときの重症化など危険性が高い感染症)から季節インフルエンザと同じ「5類」(感染力や重症化など総合的に危険性が低い感染症)に移行する方針です。どのようになっていくか改めて推移を見守りながら引き続き感染症対策は続けていきたいと思います。
私のライフワークの一つウォーキングがあります。約10年ほど毎日1万歩を目標に歩いています。始めたきっかけが、今高校1年の息子が幼稚園頃から肥満気味に。子供のダイエット・健康維持のためにしないといけないと思いまして、外に毎日、遊びを兼ねて公園を走ったり、散歩したりして過ごしていました。だけどもいつの日か子どもが習いごとをしたり、子どもの方が忙しくなって、親の手からいつしか離れていったのですが、子どものためにと、よかれと始めたウォーキングがそのまま私の健康維持に、わたしの毎日の日課となって今に続いています。何かここに「子どものため」と思っていたことが「子供のおかげ」で私が反対に育てられていたと感じることでありました。
実は本日の春季彼岸会に参るというのも似たようなところが有るのです。お浄土に参られた方を偲び、手を合わせお念仏申し、この彼岸会をご縁として、先立たれて行かれた方が大切にされてきた教え、阿弥陀様に出遇う。何よりも大切なことは私のいのちがどうなっていくかと言うことを、仏さまの教えに聞いていくことを大事にしています。
先日、あるお寺でこういうポスターを拝見しました。それは
「ひとり 旅に出る
安心できるのは 帰る家があるから
人生は 生涯をかけた ひとり旅
どこに向かい どこへ帰るのか
南無阿弥陀仏は わたしの帰る家からの よび声」
もう一度申しますが彼岸会にお参りするというのは実は先だって行かれた方をご縁として、私のいのちがどうなっていくのかを聞いていくということが大切です。ポスターの言葉を借りるならば、「南無阿弥陀仏は わたしの帰る家からの よび声」つまり、帰る家がお浄土であって、そのお浄土にいのち参らせてもらう。「亡くなった方のため」と思っていたこの彼岸会も先だたれた方が私に用意して阿弥陀様の前に集め導いてくれた大きなお育て「あなたのおかげ」と受け止めていくのが大切です。 合掌
本日はようこそコロナ禍の中、報恩講法要にお参りくださいました。毎年、途絶えることなくご先祖の皆様が大切にされてきた法要を今年も皆様とご一緒に勤めさせていただくことをとても有難く思っております。
報恩講とは京都 本願寺のご本山でおつとまりになる御正忌(ごしょうき)報恩講(1月9日~16日)をはじめ、各地の別院や全国の真宗寺院、そして門信徒のご家庭でおつとめする宗祖親鸞聖人のご遺徳を偲び、親鸞聖人がお勧め下さった名号 南無阿弥陀仏に出遇えた慶びを感謝するご法事です。
本日も法要の最初にご本尊さまである阿弥陀様に向かって合掌礼拝・お念仏申しました。合掌して頭を垂れていく、そして最後、この口から南無阿弥陀仏とお念仏申していく。
この何気ない所作は、実はすごいことなんです。私の声となって阿弥陀様は「あなたを決して見捨てない、必ずすくいお浄土に迎え取る」と南無阿弥陀仏となって私の命にはたらいている証拠を称えている不思議をどうか味わってもらいたいのです。
周りのたくさん人がいても、自分の苦しみというのは人様にはわかりません。わかってもらえないものをここに抱えています。しかしたった一人で死んでいくかと言えばそうじゃないよと教えて下さったのが、お釈迦様そして親鸞聖人です。その苦しみの中にある胸の内を、たったお一人だけわかって下さっている方がいる。それが阿弥陀様です。阿弥陀様が私のことをわかって下さり、私の命に南無阿弥陀仏となって至り届いて下さっている。私には届いていることがわからないから、わかる姿、称えられる声の仏、名の仏「南無阿弥陀仏」となって私の命にご一緒です。
「あなたは独りではないよ、決して離れて下さらぬいのちの親がここにおるよ」と私を喚び続けて下さっているお念仏が「南無阿弥陀仏」です。その南無阿弥陀仏のおいわれというものを教えて伝えてくださった今日は親鸞聖人のご命日の法要です。
苦しみも
辛きことをも
悲しみも
み名をご縁に よろこびて
この世は仮家 仮の宿
長くも良し
短くも良し
往生成仏 なもあみだぶつ 佐賀県の念仏者 (詠み人知らず)
合 掌
爆発的なコロナ第7派もピークアウトし感染者数も落ち着いてきたとはゆえ、まだまだコロナ禍で大変不自由な生活を強いられている中、ようこそ秋の彼岸会にお参り下さいました。少しでも収束すること願うばかりですが、冬のインフルエンザとコロナ第8派と今年も付き合っていくのでしょうか。
さて「彼岸」とは春秋の季節を表す言葉ではなく、「お浄土」を表す大切な仏様のお言葉です。私たちの住む世界「此岸」から、阿弥陀さまの極楽浄土「彼岸」へ到る道、私のいのちの行く末を訪ねていくことが大切なことです。
先日、夜のウォーキング中、その地域でのサプライズで大きな花火が時間にして10分間ほど、夜空にきれいな大輪を咲かせていました。今年も軒並みどこの花火大会も中止でしたので、一人でしたが楽しませてもらいました(花火の位置的に日野公園墓地近辺)。
前に聞いたことがあります。花火玉というのはどうやら、それを作った職人さんは「どれくらいの規模の花火があがるのか」「どのような模様を描くのか」「どのような光や色を放つのか」作製中にすべてわかるそうです。すべての花火玉があげてみないとわからないのではなくて、あげる前からちゃんとわかっているそうです。つまり花火玉自体が「すでに仕上がって完成」されているものなのですね。
この話を聞いた時に「南無阿弥陀仏」と「花火玉」は全く違いますが、「すべて仕上がって完成」といったその意味合いは同じなんだと思いました。
ふとした時に、私のいのちの行く末はどうなっていくのだろうか。と思いを巡らした時に、名号「南無阿弥陀仏」の中に阿弥陀さまが私のいのちの行く末をすべて完成されてくださっているのです。それは死んでおしまいではなく、本当の安らぎの世界であるお浄土の世界に仏様として生まれていくいのちであるんだということ。お浄土でゆっくり眠るのではなくて、この娑婆の世界に帰ってきて、有縁ある方々を阿弥陀さまとのご縁に引き合わせていく、お念仏の世界に導いていく、お浄土に仏と生まれ、娑婆の世界に還ってくる。そういう活動をしていくこともすべて南無阿弥陀仏に約束され完成されているのです。
そのような大丈夫なお働きが、もう皆さんのいのちに届いていると言うこと、それが皆様の口から出てくださる「南無阿弥陀仏」なのです。大丈夫なはたらきが「すべて仕上がって完成」され、私のいのちに至り届いているのです。お彼岸は先に浄土に帰られた方を仏様として手を合わせていく世界をつくってくださり、そして私に阿弥陀様とのご縁を結んでくださっているのです。 合 掌
令和四年 盂蘭盆会にようこそご参詣下さいました。
昨年よりもだいぶ落ち着いてきたとはゆえ、新型コロナウィルス感染症の第7波も懸念され、しばらく収束に向けて、細心の注意を払いながら行動しなければなりません。
さて、皆様、お浄土のことを極楽とも言いますがどんなイメージが湧くでしょうか。もしくは私が生まれてゆくお浄土の世界というものに対してどんなイメージを皆様、お持ちでしょうか。
ある時、お葬儀の場でお孫さんから亡くなったおじいちゃんに向かってのお別れの言葉の中で、お孫さんがこう言ってました。「おじいちゃんへ、天国で大好きだった麻雀を心ゆくまで楽しんでください」というものでした。それはそれで笑いがこぼれる和やかなお式だったのですが。
このおじいちゃんが行く世界が天国であったとしても、お浄土であったとしても、その世界に「雀荘」はないだろうな思いながら、聞いていました。この話のように私たちの思いや願いというのが漠然と叶っていく世界が、浄土の世界かなと思っている方って結構多いんです。お経様に聞くと浄土というのは、残念ながら私の願いは叶ってゆく世界ではありません。もし私の願いが叶っていくのであればそのお浄土という世界がきっと、欲まみれの世界になっていきませんでしょうか。私の願いが叶うんだったら戦争が起きて一日でその世界が終わってしまいます。願いというのは決して良いものばかりではありません。
このように、お浄土というのは「私の願いが叶っていく世界」とは違います。お浄土はずばり「阿弥陀さまの願いが実現された世界がお浄土」です。私の願いではなくこの阿弥陀さまの願いが実現してある世界がお浄土です。お経様の浄土の説かれてある所を伺いますと、素晴らしくきらびやかな世界です、例えば七宝で彩られ、八功徳水という清らかな水で満ちあふれ、美しい鳥たちの声がさえずり、仏法を説いている。一言でいうとこんな様子なのです。冬の表参道を歩いているような雰囲気でしょうか。私は最初お浄土の姿を聞いたとき、やはり私の願いが叶った世界じゃないかってと思いました。なぜ、お浄土というのがそのように描かれてあるのかと言いうのは、よく言われていることがあります。それは、この世界に生まれたいと私たちにおこさせるには、私が願うような世界の様子をしめさなくてはならない、だからこそ私たちが思い願うようなそういう清らかな世界が、お浄土なんだという風にお釈迦様は説かれたと言われます。そんあ清らかな世界に遇うことによって、私たちは欲する心を忘れていく、失っていくのがお浄土の有様だよというんです。
そんなお浄土に思いを馳せ、盂蘭盆会を通じて先にお浄土に生まれた方を偲ばせていただく。阿弥陀さまのお心をいただいたものは必ず出会っていける世界がお浄土です。亡き方は、私が称える名号「南無阿弥陀仏」の中にご一緒です。そして南無阿弥陀仏、称える声、耳に聞こえる仏様となって阿弥陀さまは私のいのちに「あなたのいのちを必ず浄土に生まれさせる、必ずすくう」とはたらいてくださっています。 合掌
コロナ禍で心身ともに大変な中、ようこそ永代経にお参り下さいました。ここ2年、五月は緊急事態宣言が発出されて法要をあげることが出来ませんでした。まだまだ落ち着かない感染者数では有りますが、2年ぶりに皆様と勤めさせて頂くことは本当に有り難いことです。
本堂正面にご安置されている阿弥陀様は、私達一人一人に向けた切なる願いをお持ちです。その阿弥陀様の願いの一番大切なところを「本願」と言います。その願いは、
「自力の心をすてて阿弥陀様の願いを信じ、本当に疑いなく、お浄土に生まれると思って、お念仏を申して生きていきなさい。」
つまり「私を必ず仏にさせ、お浄土に生まれさせる」という願いをお持ちの仏様です。
普通は、私が願いを持つとき、その願いとは反対のことを思い願いを持ちます。例えばいつもおなかを空かせている我が子をみたときとき、「好きなものをたらふく食べさせたい」と思う願いを持ち、また、病気をしたら、「病気を治したい」という私達は願いを持ちます。
「仏にさせ、お浄土に生まれさせる」
なぜ阿弥陀様はそう願われたか。それは迷いの境涯を何度も繰り返し生きてきて、自ら作り上げた罪、悪というものから自分の力で逃れることが出来ていない私を阿弥陀様はご覧になられたからです。そういう私を必ず浄土に仏として生まれさせると誓われ、願いが願いだけで終わらずに今、私のいのちにはたらいて下さっているのが名号「南無阿弥陀仏」です。この南無阿弥陀仏には私が仏になる「行」も、そして阿弥陀様を信じる「信心」さえも阿弥陀様が全部私に用意して、準備して、受け取らせるはたらきが全て成就されたものなのです。この「南無阿弥陀仏」をご先祖の皆様は人生・いのちの拠り所として生き抜かれて行かれました。先にお浄土に生まれた皆様を偲びながらも、今、私のいのちに、口に、耳に至り届いてくださっている尊いご縁を大切にしながら歩ませて頂きましょう。 合掌
「み仏のみ名を称えるわが声は
わが声ながら尊かりけり」
甲斐和里子
暑さ寒さも彼岸まで、まだまだオミクロン株のコロナが落ち着かない中、ようこそのお参りです。
「彼岸」とは春秋の季節を表す言葉ではなく、「お浄土」を表す仏教用語です。私たちの住む世界「此岸」から、阿弥陀さまの極楽浄土「彼岸」へ到る道を尋ねていくことが大切なことです。そして私のいのちの還る場所「お浄土」に思いをはせる期間がお彼岸です。
お寺の寺務所に「み仏のみ名を称えるわが声はわが声ながら尊かりけり」(甲斐和里子)という歌が目が届く場所に掲示しています。この歌は法話や冊子などでよく目にする歌でありますので馴染みのある方も多いかもしれません。そういう私も若かりし頃は、一つのお念仏を喜ぶ方の歌としか思っていませんでした。しかし、有り難いことに多くの経験をさせていただき、またお育てにあずかったご門徒さんとの別れを通して、今しみじみと味わう歌であります。
浄土真宗のみ教えは、「南無阿弥陀仏」のいわれと言うものを聞いていく教えです。そのいわれが何かと言ったら「もう私のたすかる手立てがもう南無阿弥陀仏の名号となって私に至り届いている」と言うことです・・・・・。と言うことは、「み仏のみ名を称えるわが声はわが声ながら尊かりけり」私が称え、耳に聞こえている「南無阿弥陀仏」は私の声ではありますが阿弥陀さまが名号「南無阿弥陀仏」となって私の声を借りて耳に届いて下さっている、だから尊いお声であるのだというお心です。
そしてもう一つ、子どもの頃を思い出してみて下さい。公園で夕方遅くまで友達と遊んでいるとどこからか「もうご飯できたから帰っておいで」という母親の私を喚ぶ声が聞こえてきます。その母親の声に連れられて家路についたことは多くの方は経験があることでしょう。今、南無阿弥陀仏のお念仏の声となって、私のいのちに「あなたのいのちは西方浄土に連れて還るぞ」と阿弥陀さまは喚び続けていらっしゃいます。今までその声に気づかずにいた私のいのちでありました。その阿弥陀さまの喚び声を聞かせていただきながらこの人生を歩ませていただきましょう。合掌
本日はようこそコロナ禍の中、報恩講法要にお参りくださいました。途絶えることなくご先祖の皆様が大切にされてきた法要を今年も皆様とご一緒に勤めさせていただくこととても有難く思っております。
報恩講とは京都 本願寺のご本山でおつとまりになる御正忌(ごしょうき)報恩講(1月9日~16日)をはじめ、各地の別院や全国の真宗寺院、そして門信徒のご家庭でおつとめする宗祖親鸞聖人のご遺徳を偲び、親鸞聖人がお勧め下さった名号 南無阿弥陀仏に出遇えた慶びを感謝するご法事です。
先日、感謝することの意味を考える機会に恵まれました。それは数年前に往生された梯実圓和上のお話として先生から聞かせていただいたお話です。
それは「道に迷った方が本願寺の前で京都駅までの道を尋ねられました。事細かく丁寧に道順を教えてあげて、京都駅まで着くことが出来た。道を教えた方が一番喜ぶのは、無事に到着されたことではないだろうか。」と言うお話です。
道を教えた方を阿弥陀さまとするならば、教えた通りに歩まれることが何より慶ばれることではないでしょうか。私たちの浄土真宗の教えは私の余計なはからいを交えずに、ただ南無阿弥陀仏のお念仏一つですくわれていく教えです。阿弥陀さまは私のいのちにお浄土から至り届き「あなたのいのちを必ずお浄土に生まれさせる、我にまかせよ、必ずすくう」と名号・南無阿弥陀仏となっていま・ここではたらいて下さっています。阿弥陀さまが慶ばれることはどんなことでしょうか。そうです、ただその南無阿弥陀仏をそのままいただき、お浄土までの道をご一緒に歩ませていただくことではないでしょうか。それも道を教えてそれで終わりではなく、浄土という目的地まで南無阿弥陀仏となってご一緒して下さっているのです。まさに人生という大きな道に迷いながら、いや迷っていることもわからないこの私に「あなたといつもご一緒しているよ、浄土までの道を共に歩んでおるよ」とご一緒です。
慶べない私であろうと、み教えに背中を向けてしまっても、阿弥陀さまの事なんて忘れてしまうときも阿弥陀さまのお慈悲のど真ん中にいる私であって、そのみ手から漏れるものはありません。それが浄土真宗のみ教えであります。
本日はようこそ報恩講にお参り下さいました。 合掌
コロナ禍で心身ともに大変な中、ようこそ秋の彼岸会にお参り下さいました。 暑さもだいぶ和らぎ、太陽が真西に沈むこの時季、阿弥陀さまのお浄土へと往生されて行かれた大切な方を偲びながら私に向けられた阿弥陀さまからのお念仏の道を歩ませていただきましょう。
さて「彼岸」とは春秋の季節を表す言葉ではなく、「お浄土」を表す大切な仏様のお言葉です。私たちの住む世界「此岸」から、阿弥陀さまの極楽浄土「彼岸」へ到る道を尋ねていくことが大切なことです。
「お浄土」を阿弥陀さまのさとりの世界、そして「此岸」はまさに苦しみ・悩み多い煩悩のあふれた世界。私はすべてのものを自分の都合やものさしでしか見ることが出来ません。そのものさしを使って都合良く進めたい、それが思い通りに行かない、かなわぬと烈火のごとく怒り、苦しめられる私です。そう考えると浄土と此岸は真逆ですね。
そんな私をみそなわして下さったのが阿弥陀さまです。阿弥陀さまのすくいがとかれている「浄土三部経」を私に勧めて下さり、この道を歩み、浄土へむかって歩んで下さいと教えて下さったお釈迦様。そして阿弥陀さまは名号「南無阿弥陀仏」となって、直ちに来たれよと喚び続けています。今、「南無阿弥陀仏」とお念仏が聞こえてますね。
これはお浄土から、私の身に至り届いた阿弥陀さまのすくいの声なのです。「我に任せよ、必ずすくう」お釈迦様に勧められそして阿弥陀さまのお喚び声をいただきながら、お念仏申し歩む人生が、親鸞聖人が私にお勧め下さった彼岸へ至る道でありました。 合掌
令和3年 盂蘭盆会にようこそご参詣下さいました。
昨年よりは新型コロナウィルス感染症の実態やワクチン供給も進められ、コロナに対する対策(まだまだですが)や治療の見通しが立ってきました。しかし飲食業をはじめ、いまだに私達の生活が制限されご苦労をされているここと思います。そして第5派などに気をつけながら収束に向けて、細心の注意を払いながら行動することには変わりはありません。お寺に見えた方でワクチン接種が2回終わった方とお話しすると、とても安心した様子で、接種するしないとではこんなに心持ちが違うんだと感じたことです。おそらくそれは「先が見通せる」ことに安堵感があるからだと思います。私達の浄土真宗の教えは「いのちの先が見通せる教え」です。親鸞聖人の師である法然聖人は三種の愛心といって人の臨終の際に三つの執着心が出てくるとおっしゃっています。一つは境界愛(きょうがいあい)家族や財産などへの愛着、2つは自体愛(じたいあい)自分自身の存在、いのちそのものに対する執着、三つは当生愛(とうしょうあい)、自身は死後どのようになるかと不安になる、と。
本当に考えさせられる事です。自分で全てを消し去ろうとしてもひとつひとつまた表れてくることと思います。そのことをお見通しの仏さまが阿弥陀さまです。その不安を抱えている私を阿弥陀さまが抱いて抱えて良きようにして下さいます。そのいのちを必ず浄土に仏として生まれさせるはたらきが「南無阿弥陀仏」のお念仏となって私のいのちに届いているのです。浄土に仏と生まれていく、参らせてもらうという、いのちの先が見通せる教えが浄土真宗であります。今、浄土に仏さまとなって生まれて行かれた亡き方を偲びつつ、私のいのちの行く末を仏さまの教えの中に聞かせて貰いましょう。
暑さ寒さも彼岸まで、まだまだコロナが落ち着かない中、ようこそのお参りです。
「彼岸」とは春秋の季節を表す言葉ではなく、「お浄土」を表す仏教用語です。私たちの住む世界「此岸」から、阿弥陀さまの極楽浄土「彼岸」へ到る道を尋ねていくことが大切なことです。そして私のいのちの還る場所「お浄土」に思いをはせる期間がお彼岸です。
今コロナ禍の中で細心な注意を払い、そして大変な思いをしながら日々お過ごしのことと思います。
親鸞聖人ご在世の当時、世は源平の争乱、貴族社会から武士社会へ、戦乱や飢饉、そして天然痘をはじめとする様々な疫病に見舞われ大変な時代でありました。京都を含め西日本一帯が飢饉に陥った「養和の大飢饉」は大変な惨状であり、土地を放棄する農民が多数発生し、地域社会が崩壊、混乱は全国的に波及したそうです。
鴨長明の『方丈記』には「また、養和のころとか、久しくなりて、たしかにも覚えず。二年があひだ、世の中飢渇して、あさましき事侍りき。或は春・夏ひでり、秋・冬、大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず」と述べて、「京のならひ、何わざにつけても、源は、田舎をこそ頼めるに、たえて上るものなければ」と記したように、京都は何ごとにつけて地方の農業生産に依存しているにもかかわらず、年貢のほとんど入って来ない状況となってしまい、市中の人びとはそれによって大きな打撃をこうむりました。また『方丈記』では京都市中の死者だけで四万二千人あまりと記されています。まさに死が隣り合わせの中、激動の時代を生き抜かれました。
思えば、親鸞聖人は、飢饉や疫病による痛ましい情景を数多く目にしておられ、無常は今より身近に感じていたと思います。例えば親鸞聖人は多くの方が亡くなられたことを悲しみ、そして末燈鈔の中に「生死無常のことわり、くわしく如来のときおかせおわしましてそうろううえは、おどろきおぼしめすべからずそうろう」つまり、たくさんの人々が飢饉で亡くなったことは、本当に悲しいことだが、それは縁(条件)であって、この世に誕生したことが死の根本原因だとお釈迦さんが、大昔に言ってるではないか、だからいまさら驚くべきことではないのだと言われております。
誰も経験をしたことのないコロナ禍の時代に私は生きています。そして様々に大変な時代を生き抜かれた親鸞聖人や先人の皆様。そこに思いを馳せながら、どのようなときにも私に至り届いている「南無阿弥陀仏」を灯火として浄土までの人生を歩んで参りましょう。
本日はようこそコロナ禍の中、報恩講法要にお参りくださいました。途絶えることなくご先祖の皆様が大切にされてきた法要を今年も皆様とご一緒に勤めさせていただくこととても有難く思っております。
報恩講とは京都 本願寺のご本山でおつとまりになる御正忌(ごしょうき)報恩講(1月9日~16日)をはじめ、各地の別院や全国の真宗寺院、そして門信徒のご家庭でおつとめする宗祖親鸞聖人のご遺徳を偲び、親鸞聖人がお勧め下さった名号 南無阿弥陀仏に出遇えた慶びを感謝するご法事です。
ご本山の御正忌報恩講に先だち報恩講が一般寺院で勤められます。それは昔から浄土真宗のご門徒は比較的農村部や漁村部に多く、前年の秋に農作物等の収穫が終わる頃からおつとめする場合が多いので、報恩講は「お取り越し」「お引き上げ」とも呼ばれています。
今から757年前(1263)に親鸞聖人は90歳でご往生されました。
親鸞聖人は生涯をかけて本願念仏のみ教えを人々に伝えられました。私たちがお念仏申す「南無阿弥陀仏」は阿弥陀さまがお浄土から私たちのいのちに飛び込んで下さり、私の口を借りて、喉をふるわせて今、ここにいたり届いて下さっています。それはひとえに「あなたを決して見捨てない。いのちつきたときには必ず浄土へ生まれさせる」と名号「南無阿弥陀仏」のお六字となって私にはたらき続けています。
阿弥陀如来の「如来」とは「一如より来(きた)る」という意味があります。さとりの世界(一如)から私たちの苦しみ悩みある所に目の前にいらっしゃる阿弥陀様のお姿をもって姿を現し、声には名号・南無阿弥陀仏のお念仏となって私のいのちにお出ましくださいました。
「同座対面五百生」という言葉があります。これは字のごとく向かい合せになる座るまで五百回ものいのちを繰り返して出会えた縁の尊さを表しています。まさに私が阿弥陀様の前に座りお念仏申しているというのは、如よりお出ましくださっていたのに五百回もの生死を繰り返してやっと阿弥陀様に出遇えたということでありましょう。つらく悲しいご縁の中でお寺参りが始まった方も多いことだと思います。その一つ一つが決して無駄ごとではない、悲しみだけに終わることがないことです。そして私が阿弥陀様の出遇う尊いご縁であったんだとこの言葉から教えられることです。今年も親鸞聖人に感謝し、阿弥陀様のはたらきのど真ん中にいるこの身の幸せに手を合わせお参りさせていただきます。 合掌
コロナ禍で大変不自由な生活を強いられている中、ようこそ秋の彼岸会にお参り下さいました。秋から冬のかけて少しでも収束すること願うばかりですが、しばらくはコロナと付き合っていくしかなさそうです。
さて「彼岸」とは春秋の季節を表す言葉ではなく、「お浄土」を表す大切な仏様のお言葉です。私たちの住む世界「此岸」から、阿弥陀さまの極楽浄土「彼岸」へ到る道を尋ねていくことが大切なことです。
先日、お参りで134号沿いの相模川を車で通ったとき、橋の上で渋滞していました。いつもは相模湾に流れる河口付近を見ていたのに、その時ばかりは富士山がきれいなこともあって陸地側をのんびりと見ていました。当たり前ではありますが相模川という川に沿って長い岸があります。大げさかもしれませんが富士山に向かって長く綺麗に連なっているその姿は、どこまでも続いいていてとても素敵なひと時でありました。そして海側を見ると川の水が海に流れて一味になる、まさに私のいのちに沿って阿弥陀さまが支えて下さり、私のいのちは仏になるいのちに向かって流れて生きているのだなと味あう瞬間でした。
阿弥陀さまがかつて法蔵菩薩という修行者であられたとき、全てのいのちを漏らさず救うために誓われた願いは、「岸に沿ってあなたが流れを変えなさい」というものではありませんでした。あなたのいのちのままで引き受けることのできる親になるぞと、自らが岸となり私に合わせて変わっていかれることを選ばれました。その仏様が今私の上に名号南無阿弥陀仏と私のいのちの上に躍動している最中であります。私のいのちの行く末に思いをはせるそんな秋季彼岸会にようこそお参りくださいました。 合 掌
令和二年 盂蘭盆会にようこそご参詣下さいました。
皆様ご承知の通り世の中は新型コロナウイルス感染症により大変な不自由な生活を強いられ、ご苦労をされているここと思います。いやこれからも第2波、第3派と気をつけながら収束に向けて、細心の注意を払いながら行動しなければなりません。
改めてコロナ禍から気づくことは、当たり前のことでありますが私は必ず老い・病み・死んでいくといういのちを生きています。普段、何でもない平穏な日常を送っているときは死んでいく事なんて考えずに、いやむしろ忘れて生きています。その中で報道などで知るところによると新型コロナウイルスの罹患し肺にまで達すると肺炎となり人工呼吸器をつけて体力の回復を待つか、また最悪の場合、階段を転げ落ちるようにあっという間に死んでいくかもしれない、という死の現実に直面して私自身とても不安に駆られました。
よくよく考えるとお釈迦様は2500年以上前にいのちあるものは必ず老い病み死んでいくという無常の道理を詳しくお説き下さっています。仏様の教えは決して老病死という事実に目を背けることによって安心して生きていきなさいという教えではありません。生老病死の現実に目を背けずにそれを超えていくのが目的です。それは何のために私は生まれ、そしてどこへ生まれていくのかということをはっきりと教えて下さる。それには阿弥陀さまの本願(一番中心の願)を聞いていく事が大切なことであります。私が何のために生まれ、そしてどこへ生まれていくのか。先に浄土に参られた皆様を偲びながら、いのちの根源に思いを馳せるお盆にさせていただきましょう。 合掌
本日はようこそ報恩講法要にお参りくださいました。ご先祖の皆様が大切にされてきた法要を今年も皆様とご一緒に勤めさせていただくこととても有難く思っております。今年も報恩講の時節を迎えました。
親鸞聖人の祥月命日は、1月16日です。京都 本願寺のご本山でおつとまりになる御正忌(ごしょうき)報恩講(1月9日~16日)をはじめ、各地の別院や全国の真宗寺院、そして門信徒のご家庭でおつとめする宗祖親鸞聖人のご法事です。ご本山の御正忌に先だって、前年の秋の収穫が終わる頃からおつとめする場合が多いので、報恩講は「お取り越し」「お引き上げ」とも呼ばれています。今から757年前に親鸞聖人は90歳でご往生されました。
親鸞聖人は生涯をかけて本願念仏のみ教えを人々に伝えられました。私たちが普段お念仏申す「南無阿弥陀仏」は阿弥陀さまがお浄土から私たちのいのちに飛び込んで下さり、私の口を借りて、喉をふるわせて今いたり届いて下さっています。それはひとえに「あなたを決して見捨てない。いのちつきたときには必ず浄土へ生まれさせる」とお念仏の声となってはたらき続けて下さっています。
ここにお参りの皆様は、多くのご縁でお寺にお参りいただいたことだと思います。
先日ある先生からこのようなお話を聞かせていただきました。それはある紳士的な男性がここ最近よくお寺の法話会にお参りにみえるそうです。それは亡き妻の遺言だったそうです。妻が亡くなる直前に「あなた、お寺の法話会にお参りして下さい」。そうするとその男性は「わかった、お前が安心するならお寺にお参りするよ」と答えます。妻は「違うわよ。あなたが安心するためにお寺にお参りするの」と言われてそれまでお寺に見向きもしなかった男性のお寺参りが始まったそうです。
私たちも浄土に仏様として生まれていくいのちをここに生きています。それはひとえにこのいのち・人生を安心して生きてほしい。あなたを決して見捨てない仏様がここにおるかねと親鸞聖人は今、時間と空間を超えて私たちにお念仏をおすすめ下さっています。本日はようこそお参り下さいました。 合掌
暑さ寒さも彼岸まで、ようこそ秋の彼岸会にお参り下さいました。
「彼岸」とは春秋の季節を表す言葉ではなく、「お浄土」を表す仏教用語です。私たちの住む世界「此岸」から、阿弥陀さまの極楽浄土「彼岸」へ到る道を尋ねていくことが大切なことです。
『阿弥陀経』というお経に、
「これより西方、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名けて極楽といふ」
とあり、阿弥陀さまの極楽浄土(彼岸)を西の方角で表すようになりました。春秋の彼岸の中日は太陽が真西に沈んでいきます。先人の方々は、この日真西へ沈む夕日に極楽浄土を重ね合わせ、彼岸の日と呼ぶようになりました。23日の秋分の日のお中日から前後三日をいれた七日間をお彼岸という仏教週間であります。
私たちはお寺で阿弥陀さまの話を聞きます。「南無阿弥陀仏の仏さまは、今、南無阿弥陀仏の名前の仏さまとなって、この身に届いてくださり、この口から『ナマンダブ』と声の仏さまとなって私の口からこぼれ出てくださる、『あなたをお浄土へ必ず迎え取り、仏にする』と言ってくださった仏さまです・・。」
お寺でお聴聞する人は、仏さまの智慧を通して物事を見る癖がつきます。
すると物の見方・人生の意味・価値観が変わってきます。「空しい人生」から「尊い人生」へと方向が転じられていくのです。
特に仏様の話の中に「私のいのちの有様、ゆく先」と言うことを聞いて行かれました。
それは「命の有様」で言うならば
「私の人生、人様には言えないけれども、つらい悲しい人生でありました。時には何で生まれてきたのかわらない人生でありました」と一人悲しみの涙に暮れながら空しく終わって行く人生が、苦しみ悲しみを縁として、この度の人生、阿弥陀様に出遇うことができた。
この度の人生は一人で孤独な人生から、阿弥陀様がご一緒の尊い、有り難い人生に転ぜられ歩ませていただきました、と。
「ゆく先」で言うならば、浄土に生まれ仏さまと成る尊い人生を歩ませていただきましたと私の人生いのちに合掌礼拝して終わっていける人生があります、と。私が申す「南無阿弥陀仏」のお念仏はただ有り難うございますとお礼を申し上げるお念仏でありますと浄土真宗のみ教えをそう聞いて行かれました。皆様、秋季彼岸会にようこそのお参りです。 合 掌
令和元年 盂蘭盆会にようこそご参詣下さいました。
私たちは人生の中で、人間として生まれてくるということ、またこうして阿弥陀様の前にお参りすることを当たり前として生きております。人として生まれ仏様の前にお参りすることは当たり前ではないのですよということを仏さまの教えは私たちに教えてくれます。仏さまの教えというのは難しいことを言っておられるのではなくて、今私たちがここにいるということが、当たり前としか思っていないけれども、実は当たり前のことではなかったんですよと、そのことを慶ばせていただくということでもありましょう。これがなかなか難しいことではあるのですが、この人生をいただいているいのちを、仏縁をお互いに喜ばせていただきましょうということが仏さまの大事なお心であります。
本日は盂蘭盆会であります。中には亡き方を仏縁として初めてお参りされる方も多いことでしょう。亡くなった方は私の背中を押して阿弥陀様の前に連れてきてくれました。「どうか仏様の教えをよりどころにこのいのちを生きておくれ。あなたのいのちに寄り添い、必ず浄土に仏様として生まれさせようとする仏様のお心聞いて下さい」と。亡き方をご縁としてこの私が仏様に願われ、阿弥陀様がご一緒の人生をこのたび歩ませていただきます。 合掌
令和という新しい元号になって初めての令和元年善行寺永代経にようこそご参詣下さいました。
ご門徒の皆様のご自宅に必ずお仏壇(阿弥陀様を御安置する場所)がありますね。仏壇というのは本当に有り難いなと思います。仏壇の前に座って 静かに手を合わせてお念仏を申しますと、仏さまを身近に感じることができないでしょうか。南無阿弥陀仏とお念仏申しながら姿・形なきものを身体に感じ、今お浄土にお帰りになられた方を声なき言葉でお話ができる場所がお仏壇の前なのかなと思います。
数年前にこんな事がありました。ずっとお参りしていたおじいちゃん。ご自宅には立派な金仏壇があります。そのおじいちゃんはお仏壇のご給仕(掃除やロウソク/お線香をつけること)は自分の仕事と言いながらお仏壇には他人様をふれさせない不思議だけれどもとても有り難いおじいちゃんがおりました。そのおじいさんが亡くなってはじめてお仏壇に参るとご長男がお仏壇をちゃんと受け継いでおり、お給仕もおじいちゃんと同じようにしっかりされておりました。もちろんお仏壇のお給仕は自分の仕事と言わんばかりにとても綺麗にされていました。まさにおじいちゃんの背中を見ると同時にご長男もそして私も仏様に育てられているんだと温かい気持ちになったのを覚えています。
私達のご先祖は私にお念仏を相続してくださいました。そして目に見える形として家に仏壇を残してくださった。その中にあって姿勢を正して手を合わし、この賢い頭を自然と下げていく場所を作って下さりました。仏さまの教えを拠り所に人生を歩んでおくれと特に親鸞聖人がお示し下さったお念仏の教えを聞きなさいと仏壇を残してくださいました。本日はそのようなご縁のあるものが集まる永代経のご縁でした。本日はようこそご参詣下さいました。 合 掌
暑さ寒さも彼岸まで、ようこそ春の彼岸会にお参り下さいました。
「彼岸」とは春秋の季節を表す言葉ではなく、「お浄土」を表す仏教用語です。私たちの住む世界「此岸」から、阿弥陀さまの極楽浄土「彼岸」へ到る道を尋ねていくことが大切なことです。そして私のいのちの還る場所「お浄土」に思いをはせる期間がお彼岸です。
朝ドラの「まんぷく」を毎朝見ています。日清食品の創業者である安藤百福(ももふく)、
安藤仁子(まさこ)さんの物語です。詳しい内容は割愛しますが、日本人の食の定番であるチキンラーメン、カップラーメンを開発した物語です。テレビの中で何度も失敗してはまた努力してチキンラーメン開発し、日本中に席巻していった(番組の中ではまんぷくらーめんと言う名前です)歩みはとても感動しながら見て、久々に続きが気になる朝ドラです。先日、いつもはあまり食べないチキンラーメンを久々に食べたくなりスパーに買いに行ったところ、商品棚にはそのラーメンがありません。そう売り切れなのです。多くの方にチキンラーメンを食べたいという衝動に走らせるテレビの影響力は絶大であるなと思ったことでした。それから数日してやっと食べたそのチキンラーメンは何かいつもよりも不思議とおいしく、創業者の努力やこの味に対する願いや思いという者を重ねながら頂いたことでした。
阿弥陀さまの「この私をすくいたい、そして浄土へ仏様として至らしめたい」という願いやはたらきは決して私の目では見ることはできません。しかし私たちがお寺の本堂へ参る、皆様のお仏壇等で手を合わせる姿を通して、そのはたらきを味合うことはできないでしょうか。まさに合掌礼拝の姿を通して姿・形としてあらわれてくださり、心に喜びとなって、そして声に「南無阿弥陀仏」の称名念仏となって阿弥陀さまはあらわれてくださいます。この私を「この私をすくいたい、そして浄土へ仏様として至らしめたい」その願いを聞かせていただいたとき「南無阿弥陀仏」はありがとうございますと感謝のお念仏を申すばかりです。チキンラーメンに舌鼓を打ちながら彼岸への道を歩ませていただきます。
合掌
本日はようこそ報恩講法要にお参りくださいました。ご先祖の皆様が大切にされてきた法要を今年も皆様とご一緒に勤めさせていただくこととても有難く思っております。ちょっとお仏壇の話を。
皆様の前には善行寺の阿弥陀様がご安置しております。内陣をはじめ金色、金箔であしらわれたご本尊です。なんで金色かと言えば、お内陣や阿弥陀様が金で飾られるというのは大切な意味があります。金というのは不変なもの。錆びず、決して変わらないものです、仏様の真実性を表すのです。真実の浄土という意味で金があしらわれるのです。
そしてもう一つお内陣をコンパクトに縮めたものが皆様のご自宅にあるお仏壇です。お仏壇というのはお浄土を形であらわした世界なのです。それをコンパクトにしてそれぞれのご自宅にご安置できるようにしたのがお仏壇です。皆様は朝な夕なにお仏壇の前に座られて「なんまんだぶつ」とお礼を申されることでしょう。毎日お浄土に会いながら、生活してらっしゃる。お浄土に会いながら生活していらっしゃるということは、お浄土のはたらきに照らされながら生活しているということです。お浄土のはたらきは何かと言ったら、一つには私をあきらかにして下さる、あきらかにしたうえで引き受けると言って下さる。そのはたらきを頂きながら生活するというのがお仏壇の前で生活するということです。考えてみればお仏壇のある生活するというのは有難いです。お浄土を前にしながら生活するということですから。
そして、ここ数年お仏壇に対して思うことがあります。それは年々お仏壇が小さくなっていくことです。近年の住宅事情で致し方ない。ご法義地のお仏壇で見かける一間、半間程の金仏壇とはいかないにしても、阿弥陀さまを関東の地でお迎えをすること、とても有り難いことではあるが複雑な思いもあります。それに比べ毎年、一般家庭が購入するテレビは大型化しているそうです。住宅事情だけの問題だけでは済まされないかも知れません。先人はお仏壇の前に座り、お念仏を申しながら自己を静かにみつめてきた。照らされた私の姿をありのまま抱いて抱えて下さり、罪や生き方は告げず、ただ救いを告げて下さった阿弥陀様にただ申し訳ないという慚愧と感謝の思いで座られた。一方テレビは外に向かっての批判や評論ばかり、そしてなんとも欲望をかき立てる番組が多い気がします。最近テレビの前に座る時間が増えた私に自戒を込めて。
合 掌
暑さ寒さも彼岸まで、ようこそ秋の彼岸会にお参り下さいました。
「彼岸」とは春秋の季節を表す言葉ではなく、「お浄土」を表す仏教用語です。私たちの住む世界「此岸」から、阿弥陀さまの極楽浄土「彼岸」へ到る道を尋ねていくことが大切なことです。
『阿弥陀経』というお経に、
「これより西方、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名けて極楽といふ」
とあり、阿弥陀さまの極楽浄土(彼岸)を西の方角で表すようになりました。春秋の彼岸の中日は太陽が真西に沈んでいきます。先人の方々は、この日真西へ沈む夕日に極楽浄土を重ね合わせ、彼岸の日と呼ぶようになりました。23日の秋分の日のお中日から前後三日をいれた七日間をお彼岸という仏教週間であります。
彼岸である浄土に私が至るという途方も無いお話を聞く。その中で人間のはからい、手柄というものが無力であるか知らされることは大切なことでありましょう。でも仏様の前に無力であることを知らされる事は私たちは何の心配をする必要がありません。それは阿弥陀様が私の人生いのちにご一緒だからです。
「あれごらん親に抱かれて寝る赤子、落ちる落ちぬの心配はなし」・・・親の腕の中ですやすやと寝ている赤ちゃんはそこから落ちるのかと言う心配や、不安が一切無く安らかに眠っている。この私も彼岸という浄土のことを何もわからなくても阿弥陀様が私のいのちを抱いてく抱えて下さって、私を彼岸(浄土)まで必ず渡して下さいます。阿弥陀様はお念仏となってあなたのいのちを今すくうとおっしゃる。その証拠によび声となった「南無阿弥陀仏」のお念仏が私のいのちに響き渡ります。
合 掌
どなた様も本日はようこそお盆の法要にお参り下さいました。
浄土真宗のお寺に参る意味は、真ん中にいらっしゃる阿弥陀さまに「お礼を申す」事です。
例えば初詣で有名な川崎大師や浅草の浅草寺さんにお参りに行くとほとんどの方は何かお願いする人が多いですね。お線香の煙をかぶると風邪を引かないとか、病気平癒、商売繁盛等お願い事をしている。
東京を初めて神奈川でもお願いごとを願いに行くお寺はたくさんあります。だけど浄土真宗のお寺はお願いしに参る場所ではないのです。お礼を申しに来る。何のお礼に来るかと言えば、仏様にして頂くことのお礼をするのが浄土真宗のお寺です。
日本全国に浄土真宗のお寺があると言うことは生きとし生きるものを必ず仏様にする阿弥陀さまのはたらきの中に私がいると言うことなのです。本堂の真ん中にある阿弥陀さまのお姿を以て表れ出て下さっている。
私たちのいのちは仏様になるいのちだったんですねとこのご本堂で聞かせて頂くとき、私たちはただ「有り難うございます」と南無阿弥陀仏とお礼を申し上げる。これが浄土真宗のお念仏です。
先にお浄土に生まれていかれた皆様はこの南無(なも)阿弥陀仏(あみだぶつ)のお念仏を大事にされてきました。この私たちも必ず参って行く世界がお浄土です。皆さま、本日はようこそお参りくださいました。 合 掌
本日はようこそ善行寺永代経法要にお参り下さいました。
最近は法事のお勤めが終わった後、法事の意味やお心について2つの話をすようにしています。
まず1つ目は「亡き方を偲ぶ大切さ」です。人間は二度死ぬと言われ、一度目はこの身が死んだ時であり、二度目は亡くなった方の法事がつとめられなくなったときです。見方を変えればもう一度、縁のある方の心に人は生きることが出来るということでしょう。
そして2つめは亡くなった方が私に残してくれた「仏縁」です。順縁、逆縁様々な厳しい縁がありますが、悲しみの中にただ生きる世界からお浄土に向かって生きる世界を歩んでほしい、それには阿弥陀さまの願いを聞いていくことが大切なんだよと残された私達にこの縁を残してくれました。
親鸞聖人はその阿弥陀様の願いを「どんなことがあっても、私はあなたを見捨てることはしません。必ず浄土に仏として生まれさせる」とお示しくださいました。阿弥陀様のお心をいただいて生きる者には、必ず会える世界が聞きひらかれているのです。
本願寺第14世寂如上人はお寺に参るということ、手を合わせお念仏申すことを
「ひく足も 称える口も 拝むて手も 弥陀願力の不思議なりけり」
お寺に参る足も、お念仏称える口も、阿弥陀さまに合掌する手も、阿弥陀様のご本願が我が身の上に、はたらいて下さってある相(すがた)でありますと詠まれ慶ばれました。
「弥陀願力」の「力」とははたらきであり、そのはたらきは目には見えません。けれども、他のものを通じてそのはたらきを感じることは出来ます。例えば風は見ることはできませんが、そよぎとなって木の葉を揺らす、また私の身体を渡るとき、涼風となってそのはたきを知らせてくれます。
暑さ寒さも彼岸まで、皆様ようこそ善行寺 春季彼岸会にお参りいただきました。
今から7年前の春休み、家族で横浜駅にある横浜そごうへ買い物へ行きました。皆様ご存じの通り、開店当初は東洋一という売り場面積を持った大きな百貨店です。
当時幼稚園であった長男がそこで、ほんの少し目を離した隙に迷子になったのです。売り場中、探してもいない、その広いフロアーできる限り探してもいない、子どもを探しながら、よからぬ事も頭によぎりながら不安と心配で一杯になりました。横浜に行くのでおめかしするときしか着ないオシャレなシャツを無理して着させていくのですか当日たまたま真っ青なトミカのトレーナーが良いと朝に駄々をこねたのが幸いしました。
しばらくすると館内放送が流れ「青のトミカのトレーナーを着た成田祐真君を迷子センターにお預かりしております。保護者の方は至急お越し下さい」と放送が流れました。その時の気持ちと言ったら一気に心配や不安が無くなってホッと安心した気持ちでありました。今もそごうに行くとその時のことを思い出します。意識して聞きますと結構な回数の迷子の案内が放送されています。ただ我が事ととならないと聞こうともしないし、気づきもしません。
よくよく考えるとこの迷子の放送と南無阿弥陀仏のおいわれが重なりました。平素、私のために私が気づくずっと前から、決して見捨てずに私のいのちに向かって「われにまかせよ、必ず救う、安心してこのいのちを歩んでくれと」呼び続けて下さった阿弥陀様です。今たぐいまれなるご縁でやっと阿弥陀様のはたらきに気づかせていただいた人生であります。
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私達の真宗の教えは聴聞を大切にしております。1回、2回聞いて強く賢く立派に生きていけるなら仏様の教えは必要ありません。何回聞いても死ぬまで聞いても阿弥陀様から見ればお粗末なことを繰り返して、弱く愚かに涙しなければ生きていけない私たちです。だからこそ私を目当てに一生懸命はたらいて下さっている阿弥陀様に出遇えた人生を精一杯歩ませていただきましょう。本日はようこそのお参りです。
朝晩が涼しくなり、お寺から見える風景も少しずつ秋らしくなってきました。お寺の前の銀杏並木の銀杏がたくさん地面に落ちる姿を見るたびに秋が訪れてきたなと思います。また特に、田園地帯に行くと稲穂の色が黄金色になって、頭を垂れる様は、「実りの秋」という言葉にふさわしいですね。
今月は善行寺で報恩講(ほうおんこう)が勤まります。報恩講は親鸞聖人のご遺徳を偲ぶとともに、阿弥陀様のご恩に報謝し営まれる法要です。そして自らのいのちを振り返り、そのいのちの依り所であるお念仏のみ教えに出遇えたことを感謝する、1年でもっとも大切な法要です。
私たちが拠り所としている浄土真宗は「浄土の真(まこと)を宗とする」と書きます。阿弥陀様は「浄土を真実の拠り所としなさい」と言います。この真実の実は「みのり」とも読めます。浄土を真実の拠り所として出遇い歩んでいくものはこの人生が「みのり」多く充実し、決してむなしい人生を送ることはありませんということです。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
「みのり」多く充実した人生って何だろうと教えの中に聞いたときに、皆様が歩まれてきた半生、いろいろなことがあったと思います。突然の別れであったり、ぐうの音も出ないほどの苦しみや悲しみ、乗り越えられないような壁が立ちふさがったり........。誰にも打ち開けられず一人涙すること多くあったかと思います。しかし人生を振り返ったとき「その一つ一つが決して無駄なものではなかった」と思いを巡らせることが出来るものそれが真実(仏さまの教え)に出遇うことでありましょう。そこには苦しみや悲しみのまま、抱きかあえて下さる阿弥陀様がいらっしゃるのです。いつも傲慢になっていた私自身が阿弥陀様のはたらきにに気づけば気づくほど「申し訳なかった」と頭を垂れていく充実した人生が聞き開かれていくのです。
暑さ寒さも彼岸まで、皆様ようこそ善行寺 秋季彼岸会にお参りいただきました。
今年の5月まで勤修された第25代の専如ご門主の「伝灯奉告法要」を機縁として本山をはじめさまざまな取り組みがされています。その一つに「初めて法話を聞く人のために」をテーマに法話をより分かりやすく伝えていこうとする勉強会等が開催されています。
初めて法話を聞く人というのはお寺に参ることがなかった人に仏さまの話を聴かせようとするのはある面、拷問に近いかもしれません。私自身も法事の後に地味ながらも「初めて法事に参ったと仮定」して阿弥陀様のお話をします。その中で少しでも価値観の転換を図れたならば有り難いことですが、そう簡単にはいきません。それは今までの常識や価値観を超えるということは受け容れられないからです。
そういう中でも私自身が阿弥陀様の教えに会えた慶びを中心に伝え、生きているということは当たり前であったいのちから、偶然の連続で今生きているということ、そして生きていることがすべてだった思い、死んでいくことが敗北と思っていたいのちが実は死は終わりではなくて浄土に仏さまとして生まれていく「仏縁」であったいうことです。阿弥陀様のはなしは正直難しいかもしれません。なんで難しいかはそれは私の常識をはるかに超えているからです。よくよく考えると私が理解できる話ではすくわれないようになっていませんか?私が理解できる話は「儲かったか、儲からないか」「得したか、損したか」「長いか、短いか」くらいの話です。阿弥陀様は私の理解が到底及ばない話をして「あなたのいのちを必ず救う、仏に仕上げるぞ」とおっしゃっています。私の価値観と常識の転換が仏法なのかも知れません。
さぁ、秋のお彼岸です。浄土に生まれたご先祖の皆さまは私に仏法に遇う縁を与えてくれました。この仏縁に価値観と常識の転換に出遇ってみませんか。
皆さま、本日はようこそ善行寺盂蘭盆会にお参りくださいました。
先に浄土へお帰りになられた皆様を偲ばせていただきながら、亡き方が私に「あなたも浄土へ生まれてくるいのちであるよ、わが身の姿を省みながら、安心してこのいのち・人生を歩んでおくれ」と仏様の教えを聴聞する大切な時間であります。
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先日ご門徒が、東京浅草への観光帰りにそのままお寺へ寄って下さり、私の大好物の芋ようかんらしき?お土産をお持ちくださいました。観光した先々の名所の話に花が咲き、お土産の詳しい説明もされぬまま自宅に帰られました。
その後、楽しみにそのお土産を開封すると中身は、「ういろう」。すっかり芋ようかんだと思っていた私は「なんだういろうか.......」。ありがとうございますと素直に言えずに相手に対する行為に対して不平・不満ばかり。私の思い込みでういろうは全く悪くないのにせっかく時間を割いて買ってきたくれたお気持ちに申し訳ないと平身低頭するばかりでした。
私の思いがかなうときや都合の良いときは「有難う」とか「お蔭様」といい、自分の都合が悪いときには感謝の言葉なんてうわの空、何とも自分勝手でお恥ずかしい私です。
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いくつになっても自分中心に物事を考えてしまう私です。とても些細なことかもしれませんが、私の人生に大きな気づきを与えてくださいました。仏さまの話を聴く、あてたよりにするというのはこのような事かも知れません。お盆の仏縁に仏さまのお心を聞かせていただきましょう。(29.7)
『永代経』とは、そのような名前のお経があるのではなく、『永代読経』の略で 『永代にお経が読まれる』という意味です。そこから『お寺が永代に存続し、み教えが大切に受け継がれるように』という願いが込められた意味にもなりました。
(1) お寺が、永代に護持されていくこと。
(2) 子や孫が、代々み教えを聞き慶ぶこと。
この二つが『永代経の心』だと言ってよいでしょう。先立たれた有縁の皆様が私に「南無阿弥陀仏」のお念仏を残して下さいました。このお念仏が子々孫々と相続していくようにつとまる永代経法要にようこそお参り下さいました。
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先日海外の面白いCMを見る機会がありました。 それは『この世で一番大変な仕事』とは、一体何だと思いますか?
で始まります。グリーティングカードを中心に文房具を販売するアメリカの小売店「Cardstore」が制作したCMです。同社はインターネット上で「架空の求人広告」を出し、募集に応じた人たちとビデオ面接を実施しました。面接官は応募者に対し、まず仕事についての心構えを話します。
「この仕事は非常に大切で、責任感が必要です」「対人関係を築くことに優れていること、経済、医療などの知識が求められます」「仕事は毎日24時間体制。重労働で四六時中立ちっぱなし」「休暇は取れません。クリスマスや年末年始などのホリデーシーズンにはさらに仕事量が増えます」面接官が話す信じ難い説明に、応募者たちは驚いたり、呆れかえったりしています。そして極めつけは「お給料は、出ません」のひと言。さすがにこれには返す言葉も出てきません。もう答えが分かった方、いらっしゃいますよね?『この世で一番大変な仕事』…そう、それは「母親業」。
家事・育児はどれだけやっても終わらない、まさにエンドレスな重労働。家族のために少しでも居心地の良い家庭を作ろうとする、お母さんたちに任されているのは『世界で一番大変な』でも『世界で一番大切な』仕事なのだ、という訳です。意表を突いた回答に、応募者の皆さんは笑いながらも深く納得した様子です。
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私を育ててくれと頼んでもいないのに、私のすべてを引き受けて育ててくださることを親というのですね。特に母親は子どもにどんなに嘘をつかれようと裏切られようと、上記のCMの言葉を借りるならば子どもに対して「仕事は毎日24時間体制。重労働で四六時中立ちっぱなし」と。その子どものことを一番に思い、慈しみの心を持って育て上げるからこそ親と言うのでしょう。
阿弥陀さまは、私達がが善くても悪くても、罪が重くても軽くても、男でも女でも、金持ちでも貧乏でも、年寄りでも若いもんでも、男女老少を選ばず「あなたを助けさせておくれ」と 「南無阿弥陀仏」というお念仏となって今私にはたらき続けております。これが阿弥陀さまであって、浄土真宗という教えです。
暑さ寒さも彼岸まで、皆様ようこそ善行寺春季彼岸会にお参りいただきました。
彼岸会とは四季の移り変わりがある日本において、その昼夜の長さがほぼ同じになる春分・秋分の当日の前後に寺院で勤まる法要を意味します。その始まりは聖徳太子の頃と言われ、日本独自の法要です。彼岸である浄土が西方にあるという事を説いた「浄土三部経」の経典に基づいて、太陽が真西に沈む彼岸の中日をご縁に、先に浄土に往かれた皆様を偲び、仏法聴聞をする大切な季節です。
また世間では、この季節になると春の訪れを満開の桜やあたたかな風とともにもたらせてくれます。春は出会いと別れの季節でもありますね。次女の依真(えま)が幼稚園を卒業し、4月から小学校一年生になります。お世話になった幼稚園の先生やお友達とは寂しいですがお別れです。親は卒園式に感動して、これまでの歩みに感慨深くしておりましたがその親の心配をよそに、子どもは卒園式がただの通過点のように小学校生活を楽しみにしております。三月のお寺の掲示板に、
「人は出会いによって育てられ 別れによって深められる」
と書きました。私たちは多くの出会いと別れによって育てられ、そしてその出会いの大切さを噛みしめながら深められていきます。今さらながら私にとって一つ一つの出会いと別れが、尊い意味があったのだと深く感じることです。
振り返ると、出会いの中には思い通りにもならない事を痛感したこともあり、また身勝手な私をそのまま受け止めて下さった方もいました。
これからも一つ一つの出会いや別れを大切にしながら、先に浄土に往かれた方はお念仏を私たちに残して下さった、彼岸までの人生を有り難く歩ませていただきましょう。
今月は善行寺で報恩講(ほうおんこう)が勤まります。報恩講は親鸞聖人のご遺徳を偲ぶとともに、阿弥陀様のご恩に報謝し営まれる法要です。そして自らのいのちを振り返り、そのいのちの依り所であるお念仏のみ教えに出遇えたことを感謝する、1年でもっとも大切な法要です。
そのいのちについて阿弥陀様のお話を伺ってみると、厳しい現実が突きつけられます。それは夢幻の如く、一瞬たりとも同じ姿・形を持たない無常の中にあるはかないいのちだと知らされます。つまりいのちには限りがあり、明日さえも保証をされていないということでしょう。では「いのちがいつ終わっても良い」と私の心の準備ができているかと言えばそこには頼りない私がいます。み教えを聞いてこれで大丈夫だと思っても次の日は心配でたまらなくなり、また平常心でいられると思っても、時が経つにつれその心は見事に打ち砕かれます。これこそが煩悩のなせる業(わざ)でしょう。阿弥陀様は私の心が強くなったら手をさしのべ、救って下さる仏さまではありません。いつもあなたの心は揺れ動いて、不安でしっかりできないことを見抜いて下さっているから、あなたのいのちを阿弥陀様の方で救っていくというのです。すなわち、「あなたはそのままで良いのだよ」と。「あなたを抱(だ)いて抱(かか)える仏がここにおるから安心して任せなさい」と「南無阿弥陀仏」と名の仏、声の仏となって私のいのちに到り届いて喚び続けて下さっています。
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親鸞聖人のご臨終の様子について御伝鈔(ごでんしょう)の中にこのように記されています。「世俗のことは全く口に出さず、ただ仏恩(ぶっとん)を深く頂戴してきた慶びの言葉だけをおっしゃって、他のことは言葉になさらず、もっぱら念仏を絶えることなく称えておられました」と、最後までお念仏とともに阿弥陀様にまかせきった人生でありました。
阿弥陀様に抱いて抱えられたいのちを生きている私。そのことを改めて気づかせて頂く機縁として大切にされてきた報恩講を、今年もご一緒におつとめいたしましょう。(平成28.10)
暑さ寒さも彼岸まで、皆様ようこそ善行寺 秋季彼岸会にお参りいただきました。
夢と感動をあたえてもらったリオオリンピックが閉幕して早一ヶ月たちました。リオとは時差がちょうど12時間。早起きして、もしくは夜通しテレビに向かって応援された方も多いと思います。水泳から始まり、柔道、卓球、体操、レスリング等多くのメダルを日本にもたらせてくれました。とかく私は陸上の男子400メートルリレーが感動して何度も録画を見返しては興奮しておりました。体格差に劣る日本人がジャマイカのアンカー、ボルト選手の次にゴールするなんて鳥肌ものでした。さて次は2020年の東京オリンピックです。選手村になる豊洲や多くの会場の近くにある築地本願寺も、海外からも含めたくさんの観光客や参拝客で賑わうことでありましょう。東京オリンピックに多くの感動を期待しています。
もう一つオリンピックを見て気づいたことがります。それは実況中継の素晴らしさです。今回初めて真剣に見た卓球やバトミントンでしたが、ルールが全くと言って良いほどわかりませんでした。そういう中で実況アナウンサーや解説の方が懇切丁寧にお話ししてくれて競技の奥深さや、駆け引き、そして選手の競技に対する思いをより一層知ることができました。
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実は南無阿弥陀仏も同じです。私たちの浄土真宗は南無阿弥陀仏のおいわれを聞いていく宗旨でありますが、私の願い事をお願いする宗旨ではありません。阿弥陀様の願いを聞いていきます。その願いとはあなたを必ず仏にするという願いです。「お浄土に生まれて来いよ」と言っているのではなく「お浄土に生まれさせる」それをわかりやすく味わい深くお伝えし、お話しするのが法話でもありましょう。
先人の皆様を偲びながら、この私たちに彼岸という悟りの世界から此岸という私たちの悩み苦しみ悲しみい多い世界に、本日の秋季彼岸会を用意して下さいました。南無阿弥陀仏のおいわれを聞いていく中に、間違えなく私が救われていく道を聞かせていただきましょう。(平成28.9)
皆さま、本日はようこそ善行寺盂蘭盆会にお参りくださいました。
先に浄土へお帰りになられた皆様を偲ばせていただきながら、亡き方が私に「あなたも浄土へ生まれてくるいのちであるよ、安心してこのいのち・人生を歩んでおくれ」と仏様の教えを聴聞する大切な時間であります。
葬儀を終えて初めてお仏壇を迎えた方や、また先祖代々のお仏壇を大切に受け継がれてきている方もいらっしゃいます。多くのご家庭にとってお仏壇を迎えるきっかけは「お葬式」でありましょう。
お仏壇は、阿弥陀様の国(お浄土)をあらわしたものです。その中心におられる阿弥陀様は「かならずお浄土に生まれさせる」とお誓いくださっています。
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故人がこのお誓いのまま、間違えなくお浄土へ生まれて往かれたのだと聞かせていただいていればこそ、亡き方から私が何の心配も不安も必要ない世界を教えていただきます。
「もう会えないの?」という悲しみを「お浄土で会わせていただくのよ」という喜びへ。
「死んだらどうなるの?」という不安を「必ず仏様にならせていただくのよ」という安心へ。お葬式やお仏壇、そして本日の盂蘭盆会を通して、安心して「いのち」について家族で話し合えることも、悲しみだけで会わらせない、安心できる喜びがあるのではないでしょうか。(平成28.7)