住職のコラム(令和6年  報恩講に寄せて ~なされたことを知る(報恩)~ )

 本日はようこそお忙しい中、報恩講法要にお参りくださいました。毎年、途絶えることなくご先祖の皆様が大切にされてきた法要を今年も皆様とご一緒に勤めさせていただくことをとても有難く思っております。

 

 報恩講のは親鸞聖人のご遺徳を偲び、私が教えに出遇えた喜びを感謝し、営まれる法要です。 この私に南無阿弥陀仏のお念仏が時代や場所を越え今、この口に南無阿弥陀仏とお念仏申す身に育てられていることに思いを馳せることでもありましょう。

 

 報恩講の「恩」はサンスクリット語で「カタンニュ」といい「私になされたこと」を意味します。「報」は報道や報告という言葉のように「知らせる」つまり「報恩」は「なされたことを知る」という意味があります。

 今「恩」という言葉も「ご恩ですね」「ご恩に感謝します」とあまり聞かなくなりました。反対に耳にする言葉は「恩着せがましい」「恩を売るのか」。そういう意味では聞くのですが、素直に「ご恩ですね」の言葉は最近聞かなくなって久しいです。

 

 仏教は「因果の通り」を説きます。原因があって結果がある。話は大きくなりますが、修行(因)をしたらさとり(果)を獲る。私たちに当てはめると勉強をしたら(因)良い大学にに入れる(果)。でもよくよく考えてみるとそんなに上手くはいきません。こんなに努力したのにと愚痴をこぼしたり、結果が結びつかない事なんてしょっちゅうありませんか。親鸞聖人は今あること(果)からその(因縁)を見ていかれました。

 

 つまり、私が今南無阿弥陀仏のお念仏を称えているということは、もうすでに阿弥陀さまが私のいのちに満ち満ちててくださっている。身内に寝たきりの方や私が体調不良だったらお参りできません。本日お参りできる環境が用意されていた。厳しいご縁をはじめ、今までのご縁の一つ一つが尊いことであったと振り返ったとき何気ない、忘れ去られてしまうことでさえも、それがなかったら阿弥陀さまと出遇うことはなかったと思えたとき、「恩」(なされたことを知る)と言う意味が深く感じることができるのではないでしょうか。

 

 浄土真宗のみ教えを大切にされてきた人々は親鸞聖人のご命日を「報恩講」として脈々と受け継ぎ今日まで大切にされてきました。南無阿弥陀仏のみ教えを私たちにお示しくださった親鸞聖人に感謝し、阿弥陀さまの救いをあらためて心に深く味あわせていただく、一年で最も大切なご法要である報恩講にようこそお参りいただきました。秋も深まりだんだんと朝晩と寒さ厳しくなる折、どうぞご自愛くださいましてお過ごし下さい。                                合掌